私の夏休みの思い出
校長 永井康博
「地球沸騰化時代の到来」という言葉も出てきた今年の夏、危険な暑さが続く中、私は少々夏バテ気味ですが、皆様お変わりありませんか。
先日、「東京の西新宿小学校が低学年の植物観察を除いて、従来は提出させていた絵日記や読書感想文などの宿題を全てなくした。」というニュースがNHKで流れました。(この小学校は今年度から普段の宿題も原則なしとし、通知表も廃止しています。)この取り組みの目的は、子どもたちの主体性を伸ばすことにあり、宿題の代わりに読書や自由研究、体力づくりなど自分でテーマを見付けて、計画的に取り組むことを呼び掛けていました。
このニュースを観て、時代は大きく変わってきているなと思うとともに、50年以上前の自分の夏休みのことを懐かしく思い出しました。
私は昭和40年(1965年)に小学校に入学しました。日本が高度経済成長期に入って、国がだんだん豊かになり、勢いを感じる時代でした。
朝6時には必ず起床し、眠い目をこすりながら地域の集会所前の広場に向かいます。30人程の小学生と、大勢の保護者や地域の方が集まってきます。6時半から始まる「ラジオ体操」をするためです。(夏休み期間中、日曜以外は実施されていました。)当時は「ラジカセ」などという、しゃれた物はなく、今でいう防災無線のスピーカーを使って校区全体に聞こえるように、大音量で放送を流していました。今なら絶対に無理でしょう。クレームをつけるどころか、多くの人が家の前に出て体操をしていた光景を覚えています。体操が終わったらカードに「ハンコ」をおしてもらえ、その数が増えていくのが楽しみでした。友人とプールに行く約束をしながら帰宅。そして朝食後、朝の連続ドラマを観て、午前中は宿題に取り組むという流れでした。(午前中に外出をしてはいけないという学校のルールがありました。)
私が小学生だった頃は、夏休みの学習帳、絵日記、写生画、読書感想文など、計画的にこなさないと夏休みの後半が大変なことになるくらいの宿題が出されていました。
午後は必ず友人と一緒に小学校のプールへ。当時は小学校のプールが解放されており、「命札(住所・氏名・血液型などの書かれたカマボコ板)を監視役の人(保護者の当番制)に渡し、準備体操もそこそこにプールへ。泳ぎ疲れたらプールサイドへ上がり、甲羅干しをしながら一休み。(当時の小学生は、日焼けで真っ黒で、その黒さを競っていました。)
疲れ果てて家に帰ると、しばらく昼寝をし、夕方は祖母の養鶏業の手伝いや風呂焚き(当時は薪が燃料)をするのが私の仕事でした。
今思い返すと、結構規則正しい生活を送っていました。スマホやゲーム機はありませんでしたが、花火大会・虫送り・迎え火・送り火・盆踊り・相撲大会など、地域の行事も盛りだくさんで、充実した夏休みでした。
夏休みも前半が終了しました。この後も生徒全員が、健康で充実した夏休みを過ごし心身ともにリフレッシュして元気に2学期を迎えられることを祈っています。
2023年08月01日