勝山婦人会は、明治39年9月6日勝山女学校の運営から手を引く事を関係者に説明し、同月7日同校の事務一切を勝山女学校設立者清家久米一郎に引き渡した。「さて勝山女学校をはなれた操は、これまで自分で研究して身につけた育児と割烹など、家事家政のことを、当時女学校を卒業して家に居る嫁入前の娘さん達に教えるため、松山家政学会なるものをつくつた。」と『母を語る』にあるが、これは家政女学会のことである。

 家政女学会のことが最初に新聞に現れるのは明治40年3月21日の海南新聞である。船田ミサヲが勝山女学校を離れてから約半年がたっている。

 済美高校の前身校の一つである勝山女学校について、明治38年の海南新聞(以下海南と略称)と愛媛新報(以下愛媛と略称)とにどういう記事があるか紹介する。県の学事関係の記録に、勝山女学校が勝山高等学校になった明治40年の記録はあるが、明治38年設立の勝山女学校の記録が見当らないからである。

さて、海南の6月29日から7月1日にかけて3日間次のような広告が出ている。そして、6月29日の記事に「裁縫研究会の拡張松山二番町裁縫研究会にては学校組織に改むる準備として来る七月一日より在来科目の外に国語漢文修身教育家政数学体繰遊戯の諸学科を新設すると同時に渡部松山高等女学校長、村井松山中学校教諭、牧野師範学校教諭其他専門の学を攻究せるもの七氏を聘して講師とし県立学校教諭には放課後其他の専門教師は専属にて年少婦人の為めに大に拡張し活動する由高等女学校に入学し得ざるものゝ為め恰好の良学校と云ふべし」とある。9月2日付愛媛には、「私立勝山女学校当市二番町の裁縫研究会を拡張して私立女学校となす計画ある由は予て記載せしが三番町の清家久米一郎氏は多額の金員を寄付し愈よ設立するこて清家久米一郎氏より設立申請中の処十二日を以て認可されたりと云ふ」と12日が明記されているから9月12日設立認可が正確であろう。