澤田亀は、明治35年8月28日私立学校設置認可願を県に提出、同年9月3日認可されている。それより先、8月26日及び28・31日、 愛媛新報に「生徒募集九月一日ヨリ規則改正新学期開始ニ付本科及裁縫教員養成科各々拾名速成科参拾名募集ス希望ノ者ハ九月十日迄ニ申込ムベシ 規則書入用ノ向ハ弐銭郵券封入通知アレ地方入学者ノ為寄宿ヲ許ス松山市二番町私立松山裁縫傳習所」という広告を出している。認可されることを見越して、 先ず生徒募集を始めた訳である。そして、9月7日から4回「元私立松山裁縫傳習所事今般其筋ノ認可ヲ経テ組織ヲ改メ左ノ如く改称ス追テ予告ノ通り 入学者ハ来ル十日迄ニ申込ム可シ松山市二番町私立澤田裁縫学校」と広告を出している。
9月26日愛媛新報は「澤田裁縫学校開校式当市二番町の澤田亀子が 設立に係る澤田裁縫学校は一昨二十四日午前十時仝校に於て開校式を挙行する当日の来賓は峰視学官、増地、岡崎両県視学、天野、日野両市学務委員、野中中学、 渡邊女学、白川北予の各校長、愛媛新報社員等にて先づ生徒着席、来賓着席、礼、唱歌(君が代)、澤田校長の式辞、峰視学官の祝詞演説、生徒総代近藤サダ子の答辞、 唱歌(開校の歌)、礼、一同退場にて式全了を告ぐ夫より来賓を別室に待じ生徒の成績品を縦覧に供し澤田校長之を説明し了つて茶菓の饗応をなす席上生徒をして茶法の実習を 為さしめ又余興には音楽の合奏ありたり尚ほ午後は生徒の父兄を案内し懇談をなし成績品を縦覧せしめたる筈因に仝校目下の生徒総数は百三十名にして内本科五十三名、 速成科五十二名、補習科二十三名、養成科(教員)二十三名又た寄宿生は七名なりと」と報じている。
松山裁縫傳習所から澤田裁縫学校に名称を変更したところに、澤田の自信がみられ、松山女子裁縫研究会の追随を許さない気概がみられる。 なお、澤田裁縫学校には教員養成科を設けているが、それより先、3月1日から裁縫傳習所内に裁縫講習会を設け、裁縫教員志願者に3か月の講習をしている。なお、同年8月26日には、大南たかの私立松山裁縫女塾、8月28日には、松山手芸女学館の生徒募集広告がでている。このことは、 小学校女子就学率が明治30年50%であったのが33年70%、34年80%と急速に伸びたことも影響している。
以上まとめると、 明治35年9月3日私立澤田裁縫学校設置認可明治35年9月24日私立松山裁縫傳習所を改組松山市二番町九十一番戸に私立澤田裁縫学校開校である。
愛媛新報明治39年3月14日付に、「澤田学校の拡張」と題して、次の記事がある。「私立澤田裁縫女学校に於ては近来生徒増加のため南堀端町の校舎にては 狭隘を感ずるより一番町の元大林区署跡へ移転し来る四月より新校舎にて授業を開始すると共に校務を拡張し従来の如く女子の技能中最も必要なる裁縫科の外に 修身、読書、算術、家事等苟も家政上須要なる各学科を教授するは勿論尚ほ内部にも改善を行ひ講師は各種専門家に依嘱すといふ因に同校に於ける現在の生徒数は 百二十余名にして新学期より更に若干名を募集する由なるが新校舎は優に三百名を収容するに足るとぞ」これによって、当時の学校の様子がある程度わかる。
ついで、同年3月20日付で移転式の記事がある。「当市の裁縫学校として最も早く設立したる私立澤田裁縫学校は校地を拡張し今度一番町に移転し開校五ケ年紀と 卒業式を兼て一昨十八日午後一時より移転式を行ひたり当日の来賓は安藤知事、同夫人、竹井事務官、本宿商業学校長、清水第一尋常小学校長、県属、市内裁縫学校長、 安井裁判所長夫人、海南愛媛両新聞社員等にて先づ校長澤田亀子の挨拶、生徒総代の移転式祝詞ありて卒業生へ証書を授与し次に安藤知事は祝辞に併せて家庭の 母たるべき心得を簡明に演説し夫より校長の卒業生に対する訓諭、卒業生総代の答辞ありて午後二時式を終り別室にて来賓一同へ茶菓の饗応あり当日は 校内へ生徒の成績品を陳列し来賓の観覧に供したり」