「スポーツの済美
校長 永井康博
「スポーツの済美」は、「進学の済美」・「文化芸術の済美」とともに、済美高校が掲げるスローガンの一つです。
6月2日(金)から6月5日(月)までの間、松山地域を中心に31種目の競技でインターハイ出場を懸け、熱い闘いが繰り広げられます。済美高校からは、13種目に256人の選手が出場します。昨年は、卓球・ソフトボール・新体操・ソフトテニス(女)・陸上(女)の5つの部が優勝してます。
今年のインターハイは、北海道で開催されます。「轟かせ魂の鼓動 北の大地へ大空へ」のスローガンのもと、着実に準備が進んでいると聞いています。多くの部が北海道で活躍できることを期待しています。
ところで、「スポーツの済美」の原点はどこにあるのか、私なりに調べてみました。済美高校は、1901年(明治34年)に開設された松山裁縫傅習所がそのルーツですが、その後変遷があり1911年(明治44年)に済美高等女学校が開設されています。初代校長として招かれた冨田昌兮先生と、船田ミサヲ先生の方針でスポーツに力を入れたのが、「スポーツ済美」の始まりのようです。
済美高等女学校がスタートした時点で、松山には、すでに愛媛県立高等女学校(県女)が開校しており、高い評価を得ていました。それに対して新設されたばかりの済美高等女学校の生徒の中には、劣等感を持つ生徒も少なくなかったようです。これをぬぐい去るためには、スポーツに力を入れて「県女」に追いつき追い越すしかないと、お二人は考え、1919年(大正8年)に着任された体育科の竹田直一先生が中心となり、本格的な強化が始まります。竹田先生は現在の日本体育大学を卒業した体操競技専門の教師でした。先生がまず強化したのは当時も人気があったテニスでした。専門外ではありましたが、ご自身で勉強されたり、外部からコーチを招いたりして、ご苦労されながら「打倒県女」をめざして猛練習をし、1923年(大正12年)にはその目標を達成しています。『応援に来た約500人の生徒は県女の校庭で肩を抱き合って泣き、暗くなっても泣きやまなかった』との記録も残っています。翌年には当時開催されていた日本女子オリンピック大会で見事優勝しています。その他の種目の強化も太平洋戦争が始まるまでの約20年間続き、バスケットボール・卓球・陸上・ダンスも全国優勝を果たしています。
この時代の「スポーツを通して済美生に自信を」という当時の先生方の熱い想いが、今日の「スポーツ済美」へ脈々と受け継がれていると私は思います。
5月18日に第52回「済美学園物故者慰霊祭」が開催されました。(コロナ禍の3年間は中止)当日は創立者澤田亀先生のご遺族、澤田未知子様・澤田美穂子様をはじめ、旧職員・同窓生の皆様にもご出席いただきました。済美学園の発展に寄与された先生方を偲ぶとともに、済美学園の発展に精進することをお誓いしました。
「物故者慰霊祭」は、済美学園にとって最も大事な行事の一つです。末長く継続して開催したいと考えています。
2023年06月01日