井関邦三郎先生(第5代理事長)と新校舎の建築
校長 永井康博
井関邦三郎先生は、明治32(1899)年、現在の宇和島市三間町の農家に生まれました。高等小学校を卒業後は農業に従事しました。まだまだ封建的な色彩の強い時代で、農家に生まれた者が農家を継ぐことは当然のことであり、それ以外の道に進むことは稀でした。20歳になった先生が「自分は百姓は性に合わない。商売か工業方面に転向したい。」と申し出た際、予想に反し、お父様の快諾を受けたそうです。
大正8(1919)年、郷里で除草機の販売を始め、その後、製造も開始し、「井関農具製作所」を立ち上げます。そして、大正15(1926)年に松山市新玉町(現湊町)に工場を移転し、さらに事業を拡大して、一代で日本を代表する総合農機メーカー「井関農機」を築き上げました。
済美高校との関係は、昭和23(1948)年、創立者船田ミサヲ先生(当時は理事長)の要請を受け、理事に就任されたのが始まりです。そして昭和34(1959)年から昭和45(1970)年まで理事長を務められました。この間は、ちょうど戦後のベビーブーム世代が高校進学を迎えた時期で、先生は施設の拡充に尽力されました。本館・南校舎・北校舎・船田会館(藤原寮)は、その当時に建てられたものです。また現在、「済美平成中等教育学校」・「済美スポーツパーク」がある場所も、第二運動場として同時期に購入しています。なお、第二本館建築時に取り壊され、残念ながら現存しませんが、昭和38(1963)年には、鉄筋コンクリート二階建ての図書館を寄贈されています。このように、井関先生は、済美高校に並々ならぬ貢献をされております。
私は、済美高校の発展に寄与され、残念ながら先日亡くなられた、済美学園元理事関宏成氏(セキ株式会社元社長)から「是非伝えておきたいことがある。今の済美高校の発展は井関邦三郎さん抜きでは語れない。井関さんへの恩は忘れてはいかんよ。」と教えられ、この言葉はずっと頭に残っています。
その井関先生を始め、当時建築に携わった方々の思いや、そこで学んだ多くの生徒達の思い出が詰まった本館・南校舎を取り壊し、7階建ての新校舎を建築する工事が5月9日より始まります。取り壊す校舎は、建築後60年から50年経過しているため、耐震面で心配があり、近い将来、高い確率で発生することが予想されている、「南海トラフの巨大地震」に備えるために、新校舎の建築に踏み切りました。
工事は二段階で行われ、Ⅰ期工事で両校舎の半分を取り壊し、その跡地に新校舎を建てます。(来年秋、使用開始予定です。)Ⅱ期工事で残り部分の解体と建築に入り、その後、2つの新校舎を合体させ完成となります。工期は4年を予定しています。
工事中は何かとご迷惑をお掛けすることも多いかと思いますが、ご理解・ご協力をお願いいたします。
この校舎建築に際し、「済美」発展の礎を築いてくださった井関先生を偲ぶとともに、今後の世代に確かに受け継いでいくという思いを新たにしました。そして、井関先生に済美高校が、魅力的な学び舎として育っていることを胸を張ってご報告できるようにしたいと心に固く誓いました。
※「道の駅みま」に井関邦三郎記念館があります。南予方面にお出掛けの際は、是非立ち寄ってみてください。