1901年元旦の海南新聞 済美学園の源泉である私立松山裁縫傳習所は、百年前の明治34年4月20日、高知県出身の澤田亀により松山市北京町十二番戸に設立された。生徒100名を募集し、和裁・洋裁および小笠原流の礼法を教授した。月謝は普通科30銭、特別科50銭であった。明治35年、澤田亀は私立学校設置願いを県に提出、松山裁縫傳習所を改組し、松山市二番町九十一番戸に澤田裁縫女学校を9月24日開校した。

 生徒数は本科53名、速成科52名、補習科23名、教員養成科23名と130名を超えている。明治39年、生徒数の増加により松山市一番町の元大林区署跡へ移転している。その前年明治34年には、済美学園の支流の源泉である松山女子裁縫研究會が、高橋菊衛子を会主として設立されたがまもなく休会し、明治37年光野マスにより再開される。しかし当時は裁縫学校が続々と設立されており研究会の前途は多難であった。船田ミサヲが設立した勝山婦人會は、やがてこの研究会の経営を引き受けることになる。

 明治38年、清家久米一郎は多額の資金援助を行い松山女子裁縫研究會を学校組織に改め、済美学園の前身の一つである勝山女学校として9月12日認可されている。明治40年勝山女学校の運営から手を引いた船田ミサヲは家政女学會を創設する。設立の趣旨は、「高等女学校卒業生は学科に追われ家事のことは之を習う余地がなきを補ふ為」とある。一週30時間の講習で衛生看護・洗濯法及び染色・園芸・修身・育児法・割烹・裁縫手芸であった。当時松山市における教育機関は公立・私立学校のほかに私塾も多く存在した。当時の人口から考えても、各校間の競争は激しく、学校経営には相当な苦労があったことと思われる。統合整理すべきだという意見も当時の新聞に見られる。

 明治41年7月1日、澤田裁縫女学校と家政女学會とが合併し、愛媛実科女学校として開校式をあげた。家政女学會は1年4ヶ月で、愛媛実科女学校の高等科に移行している。明治44年3月、社団法人済美女学會設立申請、愛媛実科女学校は勝山高等女学校と合併し済美高等女学校・済美女学校が誕生することになる。


濱田 亀像 明治34年3月23日の愛媛新報は「私立裁縫傳習所の創設東京本郷区なる渡邊裁縫学校を卒業し現に高知県佐川実業学校の裁縫教員を勤むる澤田亀代子(28)なる人同校を辞して当市に来り来月上旬頃より私立裁縫傳習所を創設し生徒百名を限り募集し裁縫授業をなす由なるが子は同校卒業者中にても成績良好なりし人にて其道に於ては通ぜざることなしといふ」と報じ、続いて「私立裁縫傳習所規則」を載せ、翌24日と26日とにわたって「松山裁縫傳習所の教科程度細目」を載せている。

 3日間にもわたって裁縫傳習所の紹介記事があるということは、松山では、初めてとのことであったからであろう。なお、年齢の(28)は、38の誤植であろう。3月29日から4月7日までの間6回次のような広告をだしている。

 「傳習生募集広告今般女子裁縫専修科ヲ設ケ日用ノ和洋服及ヒ古代ノ被服類ノ裁縫ヲ教授シ傍ラ小笠原流ノ礼法ヲ授ク(科目ノ程度ハ東京渡邊裁縫学校ノ所定ニヨル)月謝普通科三十銭特別科五十銭トス寄宿ヲ許ス委細規則書ニ在リ松山市北京町十二番戸明治橋南私立松山裁縫傳習所」

 当時の広告は普通3回であるが、6回も出していることにも、初めてのことに挑戦する意気込みが感じられる。松山裁縫傳習所と名付けたことには、松山における最初の裁縫教授の施設であり、高知からはるばる出て来たのが松山だという澤田亀の感慨も籠っていよう。

 4月16日の記事 「私立松山裁縫傳習所の開所当市北京町に設立する私立裁縫傳習所は教師澤田亀子の来松が延引し漸く昨十五日郷里高知県を発程し明日ならでは着松せざるに就き昨十五日の開所を延ばして来る二十日頃となし其際は地方に於いて斯道に関係ある人々を招待して盛大なる開所祝宴を張る由尚ほ生徒の申込みは頗る多く之等は当市のみならずして郡部の分其半数を占め居り開所の日までには規定の数にも満つべからんとのことなり」 同日の広告、17・18日の特別広告「来ル四月廿日ヨリ開業ス松山北京町十一番戸私立松山裁縫傳習所」4月23日の記事「裁縫傳習所開業式当市北京町なる私立松山裁縫傳習所にては予記の如く再昨廿日両新聞記者及び関係有志を招待し仝生徒と共に開業式を挙げ終て盛宴を張れり」以上の新聞記事と広告から明治34年4月20日、澤田亀、松山市北京町十一(十二?)番戸に私立松山裁縫傳習所を開業となる。傳習所というのは、この当時よく使われた名称のようで、デンシュウジョと読む。

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