済美の由来の碑平成7年出典「春秋左氏伝」(文公十八年の項) 「世々其美不隕其名」"世々その美を済しその名をおとさず"から採られたもの意味は子孫が父祖の遺業を継いでよい行いをすること平成7年度卒業記念として建立(*碑文の書は河合玉泉)
校名はもともと左傳の語であることは周知のことであるが、命名の抑々は直接には明治23年の教育勅語に基づいているという。 「世々厥の美を済し…」の「済美」であり、本来の意味は「父祖の業を受け継ぎ、よいことをなし遂げる」であるが、 勅語の前後の関係から見れば「克く忠に克く孝に」を受けているであろう。サイビ・セイビ何れでもいいわけであるが、他県ではセイビと呼ばれて面食らうことがある
明治5年ころから、各地に小学校が設立され、その後、各町村に町村立学校が設置された。
その学校名は初め番号であったが、明治8年から校名をつけることになった。湯山・斎院のように地名をつけたもの、 勝山・拓水のように土地の象徴となるような山や川や城などの名称をとったもの、啓蒙・開通のように漢籍からいい言葉をかりたものなどいろいろである。
この「済美学校」は、明治19年の小学校令によって、翌20年、津吉村の「徳明学校」、東方村の「知新学校」、恵原村の「鳳鳴学校」などとともに、
東方尋常小学校に統合される形となった。従って、「済美」の名称は、明治15年から同20年まで足かけ6年間続いただけであった。「済美」を
「サイビ」といったのか、「セイビ」といったのかは、わからない。漢籍からいい名称をとなると、人の考えは似たもので、同じ名称の学校が県下にかなりあるが、
「済美」は他にない。似たものに論語からとったものと思われる「成美」が新居郡氷見村と宇和郡高串村にある。これは「セイビ」と読むから、
これと区別して「サイビ」と読んだかもしれないが、何の証拠もない。
ところで、明治44年発足した「済美女学校」と西野・上野村の「済美学校」とは関係ないと思われる。両者すでに20年以上離れているし、
「済美女学会」の社員及び会員の中に、「済美学校」に関係があったと思われる人物も見当たらないようである。「済美」の名称が明治初年にあったということは、
当時の漢籍に親しんでいた人々にとって、この名称を選び出すのに、明治23年に発布された教育勅語を待つまでもなかったであろうということを教えてくれる。
「済美小学校」は、現在全国に4校ある。すべて公立である。東京都杉並区立済美小学校は、
明治40年今井恒郎氏が創設した日本済美学校、昭和9年済美中学校と改称、その校舎・敷地が杉並区へ寄付され、そこに杉並区立教育研究所が設立され、
その実験学校として昭和28年に設立されたものである。校名は左傳による。しかしながら、「済美」に含蓄する意味には、かみしめて尽きることのない滋味がある。
人間の進歩、人類の発展、社会問題も帰するところは、この語にあるといえよう。と沿革史に述べている。「セイビ」と読む。大阪市立済美小学校は、大正5年創立、
校名は教育勅語から、「セイビ」と読む。奈良市立済美小学校は、明治6年「魁化舎」に始まり、明治33年済美尋常小学校と改称、この歴史を受け継いで大正5年創立。
校名については、二説があり調査中とのことである。一つは、明治33年ころ、清らかで美しいところから、「済美の里」と呼ばれている地に学校が建てられたのに因む。
一つは教育勅語から名付けた。「セイビ」と読む。東京都台東区立済美小学校からは回答がなかった。なお、岐阜市に私立の済美女子高等学校がある。「セイビ」と読む
。この学校は、大正7年の創立で、昭和17年に片桐高等女学校が岐阜済美高等女学校と改称したものである。