■済美幼稚園

済美幼稚園のあゆみ
   済美幼稚園の前身は昭和23年創立の松山幼稚園である。昭和49年に済美学園に移譲されて済美幼稚園となった。 園舎の完成が遅れ、昭和49年9月の開園に間に合わず、少しの間は済美高校の体育館で保育をした。 創立時、年中・年長児の園児で合わせて217名でスタートしたが、数年後には3年保育も始まり330名になった。

 教育課程は、主として体験学習を重視した。その一環として自然とふれあい自然と親しむために現平成中学の土地の一画を借りて芋掘りを始めた。 平成中学の校舎が完成するまで続いた。また、みかん狩りなども毎年行くようになった。さらに、新しい幼稚園に楽しい行事をということで 昭和51年度には、夕涼み会を始めた。当時の夕涼み会は、キャンプファイヤーの時母親たちがピアニカをひいて参加した。その他、砥部焼きの体験をしたり、 マラソン大会をしたりと子どもたちの楽しい体験学習が今も続いている。園庭のシンボルの一つでもある石山は、開園当時から園児たちに大人気で毎日歓声をあげて遊ぶ姿が見られた。 昭和54年から愛媛モダンダンス発表会に参加した。また、昭和59年からは、愛媛県女子体育連盟主催(山本キワヨ会長)のダンスの発表会にも参加するようになり、 楽しい表現活動をめざした。
昭和55年には、当時幼稚園としては大きい、縦15メートル横7メートルのプールが完成し、夏の間園児たちは存分に泳ぐことができた。 昭和57年には県連合研究会の会場園として木工や大型巧技台遊び、いろいろな大きさのシャボン玉遊びなど、当時としてはユニークな教材を活用して研究の成果を発表した。

  昭和62年には人間教育の一環として保護者や教員の社会的視野を広げるために、あらゆる分野から講師を招いて講演会を始めた。
 昭和63年度の全国造形教育研究大会の会場園となったために、前年から高校の教師により絵画の指導を受けることになった。 同時に、習字と硬筆と新体操及び音楽(リトミック)を保育の中で指導していただいた。この高校の教師による指導は、 日常生活を伝える楽しさをさらに味わうことができた。音楽に親しむ活動を幼児期に十分に経験することは、 音楽を楽しむ生活につながるとともに、子どもたちの自己表現や興味関心を広げている。硬筆指導の延長としてコンクールにも毎年出品している。 自分の作品をコンクールに出すことは幼児にとっては初めての経験で励みとなり喜びとなっている。また、2年間にわたり絵画の勉強を続けた結果、 それまで済美高校美術科が県立美術館で行っていた済美展にも参加することになった。イメージを広げながら伸び伸びと絵を描くことをねらいとして、 全園児の作品を展示してきた。習字作品も展示をし毎年保護者の方に好評である。

 平成2年には幼稚園教育要領が変わり、より子ど もの側にたった教育観が示された。本園は、 「遊び」が心身の調和的な発達のための基礎を培う重要な学習であるととらえ、「のびのびと元気でやさしい子どもの育成」を教育目標に掲げ保育を続けている。 平成9年6月には、「自分らしさを出しながらのびのびと遊ぶ幼児を育てる」をテーマとして、愛媛県連合研究会会場園となり環境と教師の役割などについて研究を深めた。 9月には、幼児期の保育は、幼児をとりま く施設環境も重要であることを考え、子どもの夢を大切に考えるとともに、子どもたちの様々な活動が展開できるようにするために、 遊具「恐竜パラサ」をはじめ大型総合遊具を設置した。

 平成10・11年には幼児期の教育は家族との連携なしではできないことを痛感し、 家庭とのかかわりについての研究をした。また、平成10年、地域の歌として「余土音頭」が作られたことを機会に、園独自の振り付けによる踊りを夕涼み会で発表した。 平成11年度から「地域に根ざす教育」の視点から年長組全員を対象として「和太鼓…さいびげんきだいこ」の演奏に取り組み、夕涼み会・運動会・競演会などで発表した。 平成12年には県漁連のお魚キャラバン隊と遊んだり、TVの人気番組のハナマル君とゲームをしたりと様々な機会を利用して日常では経験できない自然体験や社会体験を 取り入れて保育活動に取り組んだ。

 ものごとに積極的に取り組み、自分なりに生活をつくっていけるように保育をしてきたことは、幼稚園から小学校への移行を円滑にした。 小学校においても具体的な体験を重視した活動が求められ、さくら小学校・余土小学校との交流学習を続けている。さらに、近隣の中学校との交流も含め中学校や高等学校とも 交流学習を進めている。平成13年度からは地域の要望を受け「預かり保育」を実施している。

学校の沿革 トップページに戻る

学園歌 
進路状況